3-7. 暗黙の文法

『3-1. スペイン語の助詞?』、そして『3-6. 動詞ではなくツナギ』において、英語の構文分析とスペイン語の構文分析で大きく違っている事のひとつとして、「○○は~~」という文型を挙げました。

かなり間が開いてしまったので簡単におさらいすると、英語では「S(主語)+V(動詞)+C(補語)」という分析がされるのに対し、スペイン語では英語の be 動詞に当たるものを他の動詞と区別してツナギ(連結詞、”cópula”)と呼び、そのツナギのある述語は名詞的述語(Predicado Nominal)として、他の動詞を含む「動詞的述語(Predicado Verbal)」とは区別して考える、そして「~~」の部分は補語ではなく、主語の属性を表す属性詞(Atributo)であるという考え方です。
又、このスペイン語文法の構文分析が、英語のそれよりも、日本語の構文を考えるのに向いているのではないかとも書きました。

…でも…昔学校で習った英語の構文分析が今もそのまま使われてるのだろうか?
何十年も前の学校教育で習っただけの英語の構文分析、その後どんな進化を遂げているか分からないではないか?

と検索してみたら見つかったサイト: 英語の構文
(他にもあるでしょうけど、「構文分析って、そういえば昔やったけど、どんなだっけ?」というような方、ご参考になさって下さい。)

結論としては、昔習ったものとほぼ同じ。
文のタイプを SV、SVC、SVO、SVOO、SVOCの五つに分類するもので、ただ新しい考え方として、SVA、SVOAという二つのタイプを加えるものがあると書いてあるので、このAはもしかして、スペイン語の構文分析の特徴として挙げた属性語(atributo)のAかもと思って説明を探したのですが、再度検索した結果、どうもこれは副詞(adverb)又は副詞句を指すもののようだ。

S=主語、V=動詞、C=補語、O=目的語で、最後の目的語には直接目的と間接目的があり、SVOOという文型は厳密には S + V + iO + dO という事になる…以上、挿入句でした。

さて、スペイン語の構文分析にはもうひとつ、日本語の構文を考える上で役に立つと思える特徴があります。
それは sujeto tácito(暗黙の主語)という考え方。
(最近 Facebook などで見てると、英語のネイティブたちも結構色々省略してる気がするので、もしかしたら英語にもそういう概念はあるのかもしれないけれど…?)

動詞が主語の人称と数によって変化するスペイン語では、その動詞の活用形を見れば主語が誰か、或いは何かが分かる場合が多いので、主語が省略された文が非常に多い。
むしろ省略するのが普通で、敢えて主語をつけるのは、それを強調したい時等に限られると言ってもいい。
でもそうやって主語が省略された文の構文分析をする時、スペイン人は「主語がない」とは言わないのです。
そうではなく、省略されている「暗黙の主語」があるとして、それを補った上で構文分析をする。

これ、省略の多い日本語の文の構造を考えるのに、いいんじゃないだろうか?
主語又は他の単語、フレーズ等、存在しないのではなく、暗黙の裡に理解されている単語やフレーズがあって省略されている、それを補って構文分析をすればいいのではないかという事です。

ところで日本語では、動詞によって主語がはっきり分かるわけではないのに、結構省略されちゃいますね?
主語の省略だけでなく、日本語は曖昧で分かりにくい、論理的ではないというのが定説だった気もする。
そして、そういう「難しい」日本語を話せるようになる外国人というのも昔(30年位前?)には殆ど居なかったような…
たまに見かける外国人に日本語で話しかけようなんて思いつかず、外国人とは英語で話すものと思い込んでいたような…
英語圏以外の外国人も居た筈だけれど、外国人は外国人で固まっていて、彼らの間で話される言葉はやっぱり英語というイメージだったような…

今は外国人も増えて、その中に日本語を喋れる人、結構居ますよね?
テレビを見ていても、日本語ペラペラの外国人がいっぱい出て来る。
英語圏以外の出身者も増え、昔に比べると色んな国の外国人を見かける事が珍しくなくなった。
そしてそういう外国人を見かけた時、日本に住んでるんだから普通に日本語で話しかけていいんだというか、昔のように外国人には先ず英語で話しかけなくてはというような意識はなくなった気がするのですが。

勿論日本語を十分には話せない外国人も一杯いるでしょうが、普通に日本語で日本人と話してる外国人を見ても珍しくなくなったと思いません?
彼らはどうやって、曖昧で難しい日本語を習得したのか?

一見主語がないような日本語の文でも、実は主語がある。
日本語を理解する外国人は、それを理解、或いは暗黙の裡に察している筈。
そして曖昧な文のルールも、どこかで理解してる筈。

色んな言葉が省略される日本語。
同じ日本人同士でも聞き返さないと分からないような曖昧な文も往々にしてある。
省略されたり、或いはわざとぼかされたり…それは主語だけではなく他の単語や、時にはフレーズだったりもしますが…そういう言葉がない訳ではなく、文の中に出て来なくとも、暗黙の裡に理解される、或いは理解されると期待されている単語やフレーズが存在する…

実は文法というのは、そもそも暗黙の裡に了解されているものなのではないだろうか?
子供が言葉を話し始める時、文法を勉強したりしないでしょう?
人間は文法を習って覚えるからではなく、幼児期に大人たちが話すのを聞く事によって、その言葉が話せるようになる。
それは大人たちが話している様々な文の「暗黙のルール」を無意識の裡に理解して、そのルールに則った別の文を作る事ができるようになるから。

そういう無意識の裡に理解されているルールを意識化したものが文法…という事になるのではないですか?

只この、無意識の裡に文法を理解するという能力の発達には、それに適した時期というのがあるらしく、その時期に人間社会から隔離されて育った、例えば昔見た仏映画『野生の少年』のようなケースでは、その時期を過ぎてから幾ら他の人の話す言葉を聞いても言葉が喋れるようにはならなかったそうだ。

いずれにしても、ひとりの人間が一生の内に考えたり話したりする文を、全て子供時代に丸暗記して覚えたわけではない事は明らかだと思う。

チョムスキーのジェネレイティブ・グラマー(生成文法)という概念に初めて出遭ったのは、スペインの語学学校の授業だった。
それは簡単に言うと、ひとつの文型を理解したなら、人は同じ文型の無限の数の文を作り出す(生成する)事ができるというもので、1980年のマドリッド語学学校のスペイン語コースで使われていた、当時のスペインの高校の、言って見れば「国語」の教科書に出て来たのだ。
言語学の専門家でもチョムスキーの研究家でもない筆者には、立ち入った説明はできません。
でも30年以上前のスペインの語学学校で使われていた現地の国語の教科書に、これらの理論が取り入れられていたというのは、考えてみたら凄い事だ。

そして留学から帰った日本で、“Introducción Metódica a la Gramática Generativa”という本を見つけて買った。留学前ににスペイン語を習った先生のひとりが、新しくできたスペイン語書籍の店に居ると知って会いに行った、その店にあったのだ。

読み始めると夢中になって、読み進む内に、あれ? これどこかで見た事ある…
文法だけでなく文学や文学史も詰め込まれた短期集中型のコースでは用語その他を必死で覚えただけだった生成文法の入門書だったのです。

ちなみに上のリンクはネット検索で出て来たもので、30年以上経って、そしてちゃんとネットで読めるようになっているというのも凄い事だと思いません?

チョムスキーはユニバーサル・グラマーという事も言っていて、それは私なりの解釈では、人類共通の普遍的な文法があって、それを無意識の裡に理解するからこそ人は言葉を話せるようになる…

入門書を一冊読んだだけの理解=早とちり? 間違ってるかも知れないし、合っていたとしても未熟で不完全な理解かもしれないけれど…でも面白いと思いませんか?

非論理的で曖昧とされる日本語にも暗黙の文法はある。
だからこそ、たとえ未だ意識化された文法を知らない幼児でも、或いは学校時代文法は苦手だった、もう忘れてしまったというような人でも、日本語を話す者同士コミュニケーションを取る事ができる。

「空が青い」と「空は青い」の違いを説明する事ができなくても、この二つが微妙に違っていると感じるのは、そこに「は」と「が」の使い方に関する暗黙のルールがあって、それを無意識の裡に理解してるからじゃないですか?

そして「象は鼻が長い」という文を「象が鼻は長い」と言い換えたら、意味が違って来るでしょう!?

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